バックナンバー 京税協ニュース 平成15年5月25日 第101号

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であい
箱根・日本平と鐘山温泉の旅
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第31回京税協・大同ゴルフコンペ
組合の動き・理事会報告
ふれあい美術館/京の文学散歩

であい

川柳との出会い 右京支所 櫻井  武

 半世紀も昔の昭和25年、 当時税務署職員であった私は職場で講読していた月刊誌 「財政」 の投句川柳壇のファンでした。

或る日、 誌上での入選作品の発表があり、 なかでも最秀逸の 「愛終りぬ落ち着いて落ち着いてお辞儀…読人不知」 の句に私は先ずその句姿の奇抜さに驚いたのでした。


 選者の 「作句者の性別も分からないし、 字余りの破調句ではあるが面白さで選んだ」 との型破りの講評に私はまたまた驚かされたのです。

何故に句意の解説を避けたのか?どの様な面白さなのか?等の疑念が私をこの句の解明に挑戦させたのでした。

稚拙な頭脳をフル回転させてようやくのこと見い出した答えは、


 1、 上句の 「愛」 は男女の性愛行為を指す。

これは一世を風靡した小説 「チャタレイ夫人の恋人」 の世界なのです。 日本中の大人達がこの外国人作家に喝采を送りその登場人物が織りなす数々の情愛の描写に皆々が酔いしれていたのでした。 作句者も!

 2、 中句と下句は行為後の男性自身に見られる姿態変化の描写です。

生憎の活字不足で?十分に説明し兼ねるのが残念至極です。


 3、 作句者はまぎれもなく男性です。

前述に敢えて加えるとすればこの句には女性特有のセンチメンタリズムは見えて来ません。


 挑戦は終りました。

私の独りよがりの感性が無理矢理に引き出さしたものと一抹の不安がないではないのですが、 なにはともあれ男女の真の情愛を古川柳に見られる劣情のくすぐりから遥かに超越して斯くも美しく詠みあげているのには正に 「驚き」 の三連発ではありました。


 これを機に私は本格的な作句活動への一歩を踏み出したのです。

爾来今日迄50有餘年、 いろんなことが有りました。

昨今では喜寿を目前に税理士稼業もそこそこに、 年来の悲願である 「川柳句集・鱆 の歯ぎしり (仮称)」 の脱稿を目指して日夜老躯に鞭打って……と恰好つけてはみるものの、 其の実は四年越しの糖尿との闘いに今や息も絶え絶えの私なのです。


 遺言でも書こうS・A・R・S・  武

F1との出会い 右京支所 岸   忠

 運動神経未発達の私は、 スポーツ大好き人間ですが、 何をしても下手なので、 スポーツを観る側へ廻ってしまい、 「趣味は?」 と聞かれれば、 「スポーツ観賞」 と答えています。

最初に鈴鹿サーキットのF1 (フォーミュラワン) 日本グランプリへ行ったのは、 94年の秋。

アイルトン・セナの走りを一度直に見たくて、 チケットを買っていたのですが、 その年の5月、 サンマリノのイモラサーキットで帰らぬ人となった年です。

当初の思いはハズレてしまったが、 その年以降、 秋になれば、 にわかF1ファンとなって、 行きは2時間、 帰りは?時間かけて、 鈴鹿に毎年通っています。

F1レースは、 殆どの場合ポールツーフィニッシュで決まり、 バイクレースの様な抜きつ抜かれつは無く、 特に鈴鹿のコースはパッシングポイントは2ケ所だけと言われています。

決勝レースは全長5.8kmのコースを、 最高時速320km、 平均時速200kmのスピードで53周、 周回する約90分間のレースです。

但し、 レースの内容はラジオで聞いていない限り、 さっぱり分かりません。


 トップドライバーも、 私の知る限り、 プロスト、 セナ、 ミハエル・シューマッハと、 その時代には破られないと言われていた各々の記録が次の世代により塗り替えられてゆく。

シューマッハも、 今のトップを維持するには 「飽くなき自己への挑戦が必要」 と言っている。


 年に一度のお祭り気分で鈴鹿サーキットへ行けば、 主催者発表で10万人超の人が、 いも洗い状態でごった返している一種独特の雰囲気は、 F1レースの醍醐味とは別にまた格別です。

無趣味であるが故に、 モータースポーツ観賞と銘打ちながら、 何気なく過ごしている我が身を振り返り、 心機一転、 自己改革を、 と奮起する 「であい」 です。


 今回 「原稿〆切日」 という新たなであいを経験しました。

ラブラドールとの出会い 宇治支所 平野 篤子

 我家にはタロウと言う5才になる雄のラブラドールがいます。

次男のたっての願いで我家の一員になりました。

子育てと家事だけで手一杯の犬の苦手な私は 「犬を飼うのは反対!」 と一人頑張りましたが、 「子供達が面倒をみるならええよ」 主人の一言で、 私の意見は却下。

間もなく、 目もまだはっきりと見えない、 生後1ケ月余りの小犬が我家に来ました。

これが私と犬との出会いです。


 次男は自分の部屋でタロウと一緒に寝始めました。

夜中に鳴くと遊んでやったり、 粉ミルクをやったり、 トイレの世話をしたりと、 すべり出しは良かったのですが、 数日経ったある朝 「睡眠不足で頭痛や、 学校は休む」 この日を境に私がほとんど面倒をみる事になってしまいました。

犬の成長の速さは人間の数倍と言いますが、 しばらくの間は、 人間の赤ん坊を育てる時の様なエネルギーが要りました。


 当時は、 私も勤務をしていたので、 昼間はタロウだけ。

夕方帰宅すると、 タンスは傷だらけ、 引出の物は無残な姿、 トイレもグチャグチャ 「今日はどんな悪さをしているのかな。

もっと飼うのを反対すれば良かった」 と何度帰りの車の中で思った事か。


 そんなある日、 三男の塾の面談があり 「何か家で変わった事がありましたか。

最近、 気持ちが落ち着いて明るくなってきています」 と言われました。

思い当たる事は唯一つ。 犬を飼い始めた事です。

中学生で情緒不安定な三男にはとても良い事だったのです。


 大変な事もありますが、 思わぬ仕草に大笑いしたり、 無心にしっぽを振って喜ぶ姿に心が和んだり、 たった1匹の犬が家の雰囲気を随分変えました。

家の前を通る時に、 相手になって行かれる私の知らないタロウ友達も多く、 いつの間にか、 そんな人達とも私が知り合いになってしまいました。


 夜、 家の中でイビキをかいて寝ている姿は番犬に程遠いけれど、 大切な家族です。

出 会 い 宇治支所 秋山  達

 出会いといえば新しい人とか新しい物を想像してしまうが、 年齢を重ねてきた所為か、 最近では古い物との出会いや友人との再会ほど嬉しいものはないと感じている。


 まずは畑との出会いである。

20年ほど前から少年時代を懐かしむかのように日曜百姓を楽しんでいる。

本業が忙しくなってしまったため、 手間のかかる野菜から果樹園づくりを目標に今では約20種類の果物に挑戦している。

冬の枇杷の花から春のサクランボ、 すもも、 杏、 桃と開花が続き、 連休前には柿や葡萄がたくましく新芽を伸ばしてくる。

また、 夏のスイカづくりも楽しみとなっている。


 次は古道具との出会いである。 高価な骨董品を集めているのではない。

例えば、 ひき臼や、 古い農具、 井戸の滑車の類いである。

金銭的な価値は無くとも少年時代にもどったように農小屋に置いている。


 開業してから12年、 税理士の仕事は新しい人や職業との出会いの連続である。

ビジネスとは関係の無い人との広がりの方が当然多い。


 宇治市に和紙を使った豆人形づくりの家元がいる。 既に73歳を数えるご婦人である。

私がその先生に出会ってから10年足らずになるが、 高齢になった今でも宇治市山中の山荘に1人で住み、 冬でも暖房もとらず元気に過ごしている。

彼女は和紙人形の先生だけでなく、 また料理の先生でもある。

春には摘み草料理、 夏には山菜料理、 秋には芋煮会を恒例のように楽しみ、 また新しい出会いもある。

今、 摘み草料理を中心とした随筆 「母から母へ」 を執筆中でこれも楽しみである。


 物との新しい出会いはIT機器である。 自分なりに多少活用しているが大部分は職員任せとなっている。

もうここらで新しいものは勘弁してほしい。 何があっても不思議でない時代、 大不況やテロ行為、 事件や戦争との出会いも同様である。

 

川柳 右京支所  櫻 井   武

戦争か査察か僕の誕生日 (三月十八日)

ブッシュの矢フセインの盾共に錆び

砂嵐母は還らぬ子を想い

偶像が落ちる空しい音が鳴る

戦争の話はしない博物館

   
                           
  

箱根・日本平と鐘山温泉の旅 平成15年4月20日(日)〜21日(月)

峰山支所 東 幹夫

 今年初めての富士山を夢見ながら、 早朝5時前に目をさますと、 豆を炒るような音、 前日からの雨がより一層激しく降っています。


 京都の最北丹後より雨のスタート。 峰山駅発6時20分、 今回の参加者は4名。 明日こそ天候が良くなるだろうとの期待を持ちつつ…


追記
 京都駅に着く前、 人身事故のため途中停車もあり間に合うかどうか、 ハラハラしましたが、 4〜5分の遅れでホッとしました。

 東山支所 藤田  忠

 20日巳の刻に、 三島宿を出発した京税協の、 公称100名以上と称する大旅行団は、 3台の御車に分乗。

粛々と東海道の松並木をくぐり、 タイムトラベルの旅に出ました。

道中では、 会員の日頃の行いを暗示するかのように、 先行き俄かに掻き曇り、 道中の不安を懸念する中、 四里程駒を進めたところで突如として季節一番の濃霧に遭遇、 まさに五里霧中とはこのことか。

やがて、 辿り着いた箱根関所跡では、 1916年当時に徳川幕藩体制の礎と維持強化を目途に 「入鉄砲・出婦」 制度の説明があり、

特に“改め婆ばあ”なる婦女ボディチェック専門の 「あげまん・賄賂」 に弾力性ある対応をする女役人の説明に興味が。


 車中では、 女性会員より“三代目改め姉御”位いはやれる自信があるとの声あり…


…多謝 雨霧の中、 憧れの箱根プリンスホテルに到着、 遅すぎるタイムに合わせて出されたランチは空腹と併せて、 なにを食べても素晴らしいの一言、 これは執行役員の深慮遠謀かも。


 やがて車は、 今夜の旅籠たる 『庭園と感動の宿』 と称する850名収容の 『鐘山苑』 に辿り着く。

2万坪の回り庭園と飾彩を凝らした天然温泉群が一行を迎え、 やがて酉の刻よりメーンエベントが始まる。

相模美女軍団を従えた、“改め爺じい”(上田理事長) により大宴会が執り行なわれた。

「来春に、 念願の京税協本丸造営の完成」 を披露する得意満面のステートメントに、 その労苦に報いて“改め兄い”に為るべきとの声もありましたが。


 そのあと、 理事長より日頃の行いに賭けても 『明日こそ快晴の富士の霊峰を観て、 忍野八海の霊水を飲むぞ』 との堅い決意表明 (これはフラィイング) があり、 初夏の風情に醸し出され、 山海の珍味やグルメと美女 (年齢不問) に囲まれて、 鐘山温泉、 湯治の一夜は華やかに更けてゆく…めでたし、 めでたし

伏見支所 中嶋 康江
 初日は生憎の雨でした。 それでも箱根御番所の資料館が見られ、 当時の 「掟」 の厳しさを想像しながら静岡方面に向います。

一面の靄に覆われた箱根路、 明日こそ“晴天の富士山を願いながら”乙女峠を越え、 四季を飾る2万坪の大庭園 「ホテル鐘山苑」 に到着しました。


 窓から富士山が見える部屋も今日は誠に残念。 そのまま茶室の 「清流庵」 に案内され
…桂川のせせらぎ…と書かれてありましたが今は雨音を聞き乍らのお抹茶を一服。

疲れもこれですっかり忘れ、 寛がせていただきました。


 丁度、 庭は桜の見頃、 大自然に抱かれた背景に目を楽しませながら、 皆様の浴衣姿は湯殿へと消えていきました。

舞鶴支所 橋本 彰二
 JR三島駅からバスで鐘山温泉の鐘山苑に着くまで、 雨とガスで富士山を見ることができず残念。 箱根関所跡の見学も雨のなかであった。


 鐘山苑に着いた頃は、 雨も小降りとなり旅装を解き、 2万坪といわれる自慢の庭園の散に出る。


 1級河川 「桂川」 の流れが庭を両分し、 自生の松や杉檜を残した庭園は、 社主と6名の人によるもので管理もその人達で行っているという。

1級河川に橋を架けるのが大変であったと聞いた。


 庭の中心にある池に面したしだれ桜は満開であり、 川の流れに沿って咲く山桜や、 せせらぎの音は、 毎日喧騒のなかで暮す者に安らぎを与えてくれるのに十分であった。


 京都の社寺の庭園を見ている者として、 造園の時代、 目的、 感覚の違いか、 庭園の若さによるのか、 豪華であるが何か違いを感じたのは私1人であっただろうか。


 盛大な宴会、 清流太鼓ショー、 地区対抗ゲーム等で楽しい一時を過ごし、 明日が晴天であることを祈りながら、 夢路を辿る。

 宇治支所 山中 敏嗣
 ♪〜箱根の山は天下の険 函谷関もものならず〜♪と唄われし名曲 「箱根の山」 は関東と関西を分ける天下の峠、 昼なお暗き杉並木を通り最初の探訪地“関所跡と資料館”を見学しました。

あいにく天候が優れず雨もかなり激しく降り出し、 江戸時代の面影を残す関所跡は、 往時の旅の困難さを物語ってくれているようです。


 ここで突然ですが 「関所破りで死罪になった人は何人でしょう?」 車中での博学クイズの一問です…史記では6名と極めて少なかった様です。


 予定より早めに鐘山温泉に到着しましたが、 その頃には雲も切れ空も明るくなり、 会員の先生方の表情もほっとくつろいだ雰囲気に見えました。

標高900メートルの高所に建つホテルでは、 今や桜・桃・こぶしの花と春を謳歌し、 2万坪の庭園に彩りを添えていました。

我々も散策したり、 お茶室にて抹茶のサービスを受けたり、 ゆるやかに流れる時に身を任せて心身爽快!!

温泉に入浴中、 冠雪の富士中腹当たりもちらりと見える恩恵に預かり、 気分一新したところで華やかな宴会へと続きます。


 乾杯の前に栗田副理事長のご発声でアイヌの祈り 「カームイ・ハポニカ・アーホイヤ」 (神よ天気にしておくれの意) を全員で合唱し、 明日の快晴を誓い合ったことが印象に残りました。


 2日目は朝なお霧の中にありましたが、 心配ご無用、 忍野村に到着した頃には濃い霧も風で流され、 白雪頂く富士の山が我々の眼の前に姿を現しました。

歓喜と拍手のウェーブが起こり、 昨夜の祈りが天に届いた様です。

早速カメラのシャッターを切り始める先生達、 また、 忍野八海の湧水池の前や、 山中湖花の都公園にて富士山をバックに記念撮影と、 賑わしい日となりました。


 全国名水百選の上位にランクされる忍野湧き水清らかなこと…。

激しく様変わりする現代から自然を守り、 田園風景とのハーモニーは正に日本の原風景の一つで、 保存に値する遺産です。


 次に訪れた御殿場アウトレットでは、 ナイキやアディダスのスポーツグッズに人気が集まり、 ショッピングを楽しみました。

更に東名高速での車窓から、 また日本平から駿河湾を見下ろし、 美しくおおらかな日本一の山 「富士」 をたん能する事が出来ました。


 文才の無い小生が筆を執りましたのは、 クイズ全問正解の1人だったからで、 お許し願いたい。


 幹事の方々の細やかな心遣いで有意義な体験が出来、 楽しい旅行ありがとうございました。

東山支所 倉重 由幸

 今日の宿泊先である鐘山温泉鐘山苑に予定より1時間早く到着。


 ちなみに天候が良ければ富士山が一望できたのに残念ではあったが、

この鐘山苑にも広大な庭園があり、 宴会開始まで時間もたっぷりあったので、 それぞれ温泉に入ったり、

庭園の散策 (途中で抹茶がいただける) をしたり楽しくくつろげ (いつもの年であれば旅行世話人は宴会、 クイズ等の準備のためゆっくり温泉に入れなかった) 宴会の開始、

協同組合理事長の上田寛先生ご挨拶の後、 美味しい料理を食べながら、 太鼓ショーを見たり、

ゲーム (コンパニオンの美しい女の子にも参加してもらう) をしたり、 久しぶりにお会いする先生方とお酒を酌み交わし楽しい気分でいっぱいであった。

宴会終了後は、 館内のスナックでカラオケ等で楽しまれる先生、 マージャン、 囲碁将棋で楽しまれる先生と夜遅くまで盛り上がった。

尚、 私も最後までスナックで楽しみました。

2日目は幸いにも雨も上がり (参加の先生方の日頃の行ないが良いのでは?)、

最初は富士山の麓で涌き清水で有名な忍の八海を見学、 涌き清水の池が八箇所あるところから八海というらしい。

私たちが見学した池も、 水深が10メートルもあるのにきれいな涌き水で池の底まで透き通っていて感心しました。

つづいて今年の旅行のメインの1つでもあり、 我が国最大のアウトレット、 御殿場プレミアムアウトレットへ、

ブランド商品が通常よりも安く買えるので、 月曜日にもかかわらず多数の人でにぎわっていました。

ちょうど昼頃になり、 次の目的地であり昼食を食べる日本平ホテルヘ。

この時間になると霧も取れ、 空は晴れわたり富士山もきれいに見ることが何回もできた。

また日本平からは、 眼下に清水港がありこの景色も美しいもので、 しばし時間を忘れて見とれていました。

お土産を買うところが少なかったので、 予定より少し早く帰りの新幹線の乗車駅である静岡駅へ、 買い足らないお土産を買ったりしているうちに発車時間が近づき、 あわただしく乗車し帰途についた。

今年も参加し本当に良かったし楽しかったです。 ありがとうございました。


 最後に、 私がこの旅行に参加したきっかけは4年前に初めて旅行世話人になったことによるのですが、

今年で四回目、 ようやく顔馴染みの先生も増え嬉しく思っています、

また来年も出来る限り参加するつもりでいますよろしく。

峰山支所 稲岡 孝茂
 22時24分峰山に無事帰着。

 旅行一日目は………。


2日目は快晴に恵まれ、 美しい富士山を満喫し、 楽しい時間を過ごさせて頂きました。


 旅行世話役の先生方には、 大変お世話になり、 どうもありがとうございました。

短歌

京税協の旅 「箱根・富士」   下京支所 小田 良三

穀雨の日 景観閉ざす 箱根山
          関所通過も 五里霧中にて

春宵や 灯りに映えて 富士桜
          鐘山苑の 庭園雅び

湧きいでる 忍野八海 水清く
          秀峰富士は 白雪光る

春うらら 富士を背中に 駿河湾
          日本平の 風光絶佳


    

シリーズ  『京都のひと』 梁川紅蘭 (1804〜1879)


    伏見支所 幡山 玲子

 南禅寺の三門近くに塔頭天寿庵はある。

本堂の正面の竹かんぬきをはずして、 庭の飛び石伝いに右手、 鉄製の扉を開けるとそこは墓地。 細川幽斎他、 天寿庵ゆかりの人々の墓石を左右に見て、 墓道沿いに最奥まで進む。

尊王攘夷派の1人、 横井小楠の墓石を東横に見る位置に、 南面してその墓石はあった。

墓碑名は紅蘭張氏の墓。 左右に石燈籠を配して、 夫梁川星巌の墓石より一回り小ぶりの墓石が並んでたつ。

夫婦の墓石が別々に並んでまつられているのは周りの墓石を見渡しても珍しい。

夫の側に葬って欲しいというのが紅蘭の希望であったという。


 梁川紅蘭、 彼女の名を知る人は一体どれくらいいるだろう。


 紅蘭は、 1804年 (文化元年) 美濃国安八郡曽根村 (岐阜県大垣市) に、 郷士である父稲津多門長好、 母川瀬氏の娘貞子との間の次女として生まれる。

幼名きみ、 名は景、 紅蘭は号である。


 幼いときから利発で、 村にある華渓寺の住職太随和尚に漢学を習い、 14才の時、 又従兄弟、 星巌の開いた梨花村草舎にはいる。


 後に夫となる星巌は、 19才の時家督を弟に譲り、 江戸に出、 山本北山の設けた塾に入る。

経史と詩文を学んだ彼は一時帰郷したが、 再び江戸に出て、 柏木如亭、 菊池五山、 大窪詩佛らと交遊し、 北山門下の十哲の1人と称された。

若くしてその詩才を認められた彼は29才の時、 師と仰ぐ太随和尚が亡くなったのを期に帰郷して、 子弟の教育のため梨花村草舎を開いたのである。


 紅蘭は、 梨花村草舎で学ぶうち、 星巌を好きになり、 17才のとき自分の親に結婚を申し出て、 許された。

そのとき星巌32才。 15も年の離れた夫婦の誕生である。


 新婚時代を共に暮らす暇もなく星巌が、 「三体詩を諳誦しておくように」 と言い残し諸国漫遊の旅に出、 3年間音信不通であった。

紅蘭はその間、 「離縁して戻るように」 との親戚の言葉を振り切り、 ひたすら星巌の帰りを待ちわびながら三体詩全部をそらんじたという。


 三体詩 (三体唐詩) というのは唐の詩人167人の詩を七言絶句、 七言律詩、 五言律詩の三体に分けて編んだ書である。

その大量の漢詩すべてをそらんじたというのは紅蘭の努力はもとより、 才能が並々でないことが知れる。


 やっと帰ってきた星巌はその年の秋、 今度は紅蘭を伴って西方への旅に出た。

伊勢、 伊賀、 月ケ瀬、 奈良、 大阪と各地を旅し、 月ケ瀬では梅を詠い、 大阪では西方からきた駱駝の見せ物を見て、 「駱駝歎」 を作っている。


 大阪から播磨灘を船でわたり岡山へ。 玉島、 神辺、 尾道、 広島と山陽地方を江戸遊学時代の友を訪ね、 またその土地の有名な詩人を訪問して、 互いに詩を作りあっている。


 その後下関、 馬関を経て九州に渡り、 博多、 佐賀、 長崎、 久留米、 日田とめぐって、 再び広島に戻り、 四国丸亀、 高松に足を伸ばしている。

岡山から大阪、 京都を経て郷里に帰ったのは実に家を出てから5年がたっていた。


 この間星巌は、 広瀬淡窓や北山塾の知人を訪ね、 頼山陽その他の詩聖と交遊し、 唱酬している。

このときの成果は 「西征集一、 二、 三、 四」 として起こされている。


 夫婦同道の旅は漢詩人にあるまじきとして顰蹙をかったりしたが、 紅蘭は最後まで夫婦2人の旅をやり遂げている。

夫が側にいるとはいえ、 旅から旅の生活。

各地の名士や知人の家に逗留させてもらい、 人の家のひさしを借りての生活は20歳そこそこの彼女にとって、 気苦労の多いことだったろう。

しかし紅蘭は望郷の詩を詠んだりしてはいるものの、 この西征の旅で星巌と共に漢詩を作り、 星巌の名声と共に彼女の名前も広く知られるようになったのである。


 この時代 (文化、 文政の頃)、 幕藩体制が緩み始め、 武士階級とは別に新興の富裕層がでてきた。

彼等は子弟に教育をうけさせ、 また自らも漢詩を学んだり、 書画を詩人に依頼して書いてもらったりしたので、 星巌のように漢詩を作りながら各地を放浪することができたのである。


 帰郷後京都にでた星巌夫妻は詩の講義や添削をして生計を立て、 頼山陽と彦根や嵐山に交遊し、 公家や武家を紹介されたり、 郷里へ旅をしたりと貧しいが穏やかな日々を送っていた。

これは第1次の京都在住である。
 星巌は江戸にでる志が強く、 天保3年夫婦して江戸に出た。

知人を訪ね、 はじめは八丁堀に住んだ。

そのときたまたま水戸藩の儒学者藤田東湖と知り合い、 水戸烈公との知遇を得た。

天保5年の江戸大火に被災した夫妻は、 藤田東湖の好意で水戸屋敷の中の小屋に一時住まわせてもらっていたが、 お玉ケ池に土地を借りて家を建てた。

そしてそこで玉池吟社を開き、 詩を講じたのである。

この吟社には詩人や詩を学ぼうとする人々が門前市をなすように集まったという。

この玉池時代、 紅蘭も 「紅蘭小集」 を刊している。

このとき、 夫妻は隣に住んでいた佐久間象山と知り合い、 星巌と象山は互いに 「君のような友を得たのは幸いだ」 と詩を贈りあった。

象山は星巌を評して、 「天資俊絶で、 書として読まざるものなく、 時事を論じて慷慨し、 その才識はただに詩を善くするのみではない」 と詠っている。

2人は朝な夕なに行き来して、 心の底までうち明けてつきあったという。


 江戸に住むこと12年、 星巌は突然に玉池吟社を閉じて故郷に帰った。

その折紅蘭は尊敬していた象山に別れの詩を贈っている。

とても親しくつき合い、 夫婦喧嘩の仲裁までしてもらった象山と別れ難かったようである。


 この頃の江戸は騒がしく、 蛮社の獄がおこり、 各地では飢饉のため大塩平八郎の乱など騒動が多発していた。

水野忠邦の天保の改革が始まったが、 効を奏さず、 化政時代のロシア船の樺太来航やイギリス船の浦賀来航に始まった欧米諸外国船の来航ラッシュと通商要求等で、 幕府は対応に苦慮していた。

江戸を去った理由は定かでないが、 儒学者と交わり、 思想的には攘夷論者であった星巌はこの江戸の混乱を嫌ったのかも知れない。


 故郷に帰った夫妻は2度目の上洛をする。 京都に入って居を転々としたが、 川端丸太町の東に家を購入して 「鴨沂小隠」 と称して多くの漢詩を詠み 「鴨沂小隠集」 を五まで起こした。

この頃星巌は詩人だけでなく、 吉田松陰など尊皇攘夷派のメンバーと交際を拡げている。

折しもアメリカとの通商条約締結で国論が2分している中、 星巌は勅許問題について公家達に画策し、 結局勅許をおろさせなかった。

また吉田松陰の意見書を九重侯に差し出すなど、 尊皇攘夷運動の要、 根回し役として活躍したのである。

西郷隆盛も2度京都に赴き、 星巌らと会合している。

隆盛が訪ねた折、 紅蘭は自分のかんざし等を質に入れてもてなしたという。


 星巌と交遊のあった梅田雲浜、 頼山陽の子頼三樹三郎、 吉田松陰等が捕えられた安政の大獄の直前、 星巌はコレラに罹り死亡した。

「悪謀の問屋」 と目されていた星巌にも逮捕令がでたが、 死亡した後であり、 代わりに紅蘭が逮捕され、 厳しい追及を受けた。


 紅蘭は、 「男子婦人の手に死せず」 として臨終に際し妻を退けた夫が国事について妻に話すことはないと、 謀議について一切話さなかった。

彼女の意気は、 3回忌の後訪ねてきた象山が日頃のご無沙汰を詫び、 金百両を贈ろうとした際固辞し、

象山に対し、 洋風を喜ばれるが、 攘夷論の浪士が出没して物騒なので、 目立つ西洋の馬具をつけた馬には乗らないようにと注意をしている。


 6ケ月の拘禁の後釈放された紅蘭は 「鴨沂小隠」 に戻り、 私塾を開いて詩文を教えて生計を立て、 弟子達と共に夫の遺稿集を編んで上梓し、 明治12年故郷で没した。 76才であった。


 紅蘭の生涯におけるエピソードは少ない。

野村望東尼のように尊皇攘夷運動に身を投じたのでもない。

また頼山陽との恋愛に生きた江馬細香のように、 漢詩人として生涯独身を通したのでもない。

常に夫と共にあり、 清貧の生活の中で夫を助け、 夫に従う妻としての役割と、 夫と共に漢詩を作り、 夫に師事する一番身近な弟子としての役割を生きぬいた女性であるといえる。

夫を愛し、 克つ夫を師としてまた同好の士として敬う。

夫星巌もまた、 儒教思想に言う劣っている女としてではなく、 星巌と同じ一人の漢詩人として紅蘭を見ていただろう。

三従 (女は父、 夫、 子に従う) の教えに代表される儒教思想の支配する幕末にあって、 男性のものとされてきた漢詩を学び、 男性に伍して漢詩人としてたった紅蘭はこの点で特筆されるべきである。

参考文献


 大原富枝
  「梁川星巌・紅蘭・放浪の鴛鴦」 日本の旅人K   淡交社 昭和四十八年

 関 民子
  「江戸後期の女性たち」   亜紀書房 昭和五十五年


 曾田範治
  「近世女流文人伝」   明治書院 昭和三十六年


 


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